女真文字(じょしんもじ)は、金時代に女真族により使用された文字。
女真大字と女真小字の二種類の文字があるとされる。現在残されている文字が大字か小字かは今のところ判明していないが、大字とする説が有力で、小字とは(下記の吾妻鏡や銀簡に見られるような)大字の組み合わせ文字のことであろうとされる。
文献資料として、明代に編纂されたとされる華夷訳語があり、また女真文字を記した碑文や遺物も比較的(契丹文字よりは)多く存在する。女真文字の資料として、一般にも手に入りやすいものとして Grube,『女真語言文字考』(1896) や Kiyose, A Study of the Jurchen Language and Script,(1977) がある。
これによると、字形は、漢字に似たものが多い。日本の国字とは、相互に影響しあっていないと見られるが、「凩」に似た文字もある。
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文字は、明らかに漢字から借用されたと思われる文字と、契丹文字由来と思われる文字、由来不明の文字等が混淆しているように見える。また、表音文字と表語文字が混在しており、表音表記も必ずしも一音節を表すとは限らず、音節文字としての法則は明らかではない。
14世紀に金王朝の歴史を編纂した正史の『金史』によれば、1119年(天輔三年)に金の太祖阿骨打の命令により、完顔希于が契丹文字を参考に女真大字を作成したとされる。女真小字の方は、1138年(天眷元年)に金の第3代皇帝熙宗が制定し、1145年(皇統五年)に公布したという。大字小字共に具体的な文字の詳細は述べられていない。
「史記」「白氏策林」「論語」「孟子」「老子」などの女真文字での翻訳がなされたらしいが、全て佚書となっており、内容は明らかではない。
1234年(天興三年)の金滅亡以降も、中国東北部の女真族の間ではしばらく使われていたらしく、1413年(永楽十一年)に作成されたと思われる碑文(奴児汗都司永寧寺碑)には、漢文、チベット文字、モンゴル文字に並んで女真文字も記されている。このことから、少なくとも15世紀初頭の段階ではまだ女真文字を使用できる人々が暮らしていたと考えられている。
女真族は後にモンゴル文字を参考にした満州文字を使用することとなるが、満州文字の使用された最も早い時期の碑文は1630年(崇禎三年)に作成されたものであり、少なくともこの時点までには既に女真文字は使用されなくなっていたと思われる。
日本の吾妻鏡の中に、1224年(貞応三年)2月29日の記述として、女真の船が越後国寺泊(現在の新潟県長岡市寺泊)に漂着して、その際に乗船していた一行が持っていた銀簡に意味不明の4文字が記されていたことが書かれており、その文字が模写されている。江戸時代に林羅山が朝鮮通信使の文弘績にこの文字について尋ね、文弘績は「王国貴族」と読んだ、という逸話がある[1][2]。
明治になって、書かれている文字が女真文字であることは判明したが、内容は不明のままであった。後の研究により、この文字は「国之誠」と読め、銀簡は金国の通行証に当たるものであることがわかっている。
1976年に、当時のソ連沿海地方のシャイギン城址で、吾妻鏡に書かれた文字と同じ文字を記した銀簡が発掘され、吾妻鏡の記述が正しかったことが明らかになった。